「オルガンの音がハタと止んだ。靴音が閑雅に床を鳴らした。ドアがあけられた。私は叱責を待つ子供のようにその方を見ないで、懸命に卓上の花環をみつめていた。その人はしずかに私のそばの椅子にかけた。薔薇の薫りが流れ寄った。
「まあ、どこの坊っちゃん?」その声が咎め立てする調子ではなく、いかにも、優雅なやさしさに溢れていたので私は思わず顔を上げた。美しい人がほほえみながら私の顔を見ていた。」
三島由紀夫「岬にての物語」を読んでいます。一度きりの出会いで人と人が解け合い、恋心に近い感情を覚えつつ、それを越えた豊かなものが心に満ちて、砕けていきました。
「岬にての物語」は11歳の「私」が房総半島のある海岸で過ごした、夏の日の出会いと別れを描いている短編です。心情と情景の描写が相変わらず天才的でした。波打つ潮、輝く硅砂、日陰の傘で読む冒険譚、母の横顔、鬱蒼とした小道、朽ちた建物、聞こえるオルガンの音。それらが少年「私」の心情と妙にマッチして、美しい色彩を放つ景色なのにどこか哀しい印象が強い。景色だけでなく、そこに居る人間の体温とにおいまで感じ取れるような表現も、心に痛痒くしみています。読み終わった後は心にぽっかりと穴が空き、しんとした喪失感を覚えました。
果たして、自分が11歳の頃は登場する「私」のように空間を感じ取ることができていたのか。いくら過去を振り返っても、これほど的確に美しく感じ入ることも、流暢に表現することも、できやしなかった。が、少年期に出会った大人たち(青年層)に対する立ち振舞いで、子供らしさを演じる気遣いはたしかに有ったと記憶しています。11歳というのは、周囲から見た自分の立ち位置がわずかながら解りはじめる、丁度その頃なのかもしれません。
死を決意してこそ、ほんとうの意味で生きることができる。自分の境遇をただ受け入れ、耽美な生を享受するくらいならば、いっそのこと苛烈な死を選択する。それを若いだの、青臭いだのと一蹴できるほど、僕たちは自分という命の限られた時間を、情熱と覚悟を持って過ごせているのか。
そして情熱に燃やし尽くされた命の熱波は、周囲のものを巻き込みながら、次の者を選び引き継がれてゆく。「岬にての物語」を読んだあとは、呆然自失となりながら、こんなことを考えていました。11歳の「私」がその瞬間に受け止めるにはあまりに大きい命題であったとしても、その後の「私」に影響を与えた出来事であったことは、物語の締めに綴られています。
「人間が容易に人に伝え得ないあの一つの真実、後年私がそれを求めてさすらい、おそらくそれとひきかえでなら、命さえ惜しまぬであろう一つの真実を、私は覚えて来たからである。」
三島由紀夫は情熱の人である、と僕は感じています。「夏子の冒険」も、ライトに、コミカルに描かれていますが、情熱をテーマにした作品であるといえます。「岬にての物語」は、三島由紀夫の情熱の発起点を見ることができた作品でした。短編でありながらその満足度は脳天を突き抜けるほど、圧倒的でありました。
ところで、三島由紀夫を読んでいると、その登場人物の品の良さに感動を覚える場面が多く、充実感に満たされます。僕自身がなかなかの俗物であり、貴人と裾を触れることが困難な昨今、人びとの対話や立ち振舞いは辛うじて残った自身の、素直で清らかな部分を思い出させてくれる気がします。
夏の日の爽やかな思い出も、夢想も、出会いも、芽生えはじめた恋心も、釣瓶落としの夕日のように消えてゆく、さみしさ。喪失感の正体はこれだったと、後になって気付いたのでした。