「大切な人の死は、その人が死ぬことでしか与えられない贈り物を私達に与えてくれる」
うろ覚えですがフジコ・ヘミングの本に書いてあった一節です。熱心なキリスト教徒である彼女の死に対する考え方は軽くありません。
道路除雪の仕事に参加してから冬の夜は眠れるものと思わなくなりました。一晩に数十分の浅い眠りを数回。電話で起きることもあるし、目を瞑っても天気が気になって目覚めることもあります。半分寝ながら耳を澄ませ、外が荒れている音のときはまだ良くて、無音のときは数十分で景色が変わるので怖いんです。
寝不足の頭はだんだんと思考に統一性がなくなり、昔のことを思い出す時間が増えていきます。楽しかったこと。寂しかったこと。恥ずかしかったこと。失敗の記憶。仲間のこと。家族のこと。これからのこと。とか。
そして昨晩は数年前に亡くなってしまった仲間のことを思い出していました。彼のことを思い出すたびに、最初に書いたフジコ・ヘミングの言葉を思い出します。そして「その人が死ぬことでしか与えられない贈り物」ってなんだろうと、いつもここで立ち止まります。
そもそも自分にそんな大切な贈り物を受け取る権利というか資格というか、そういうものはあるのかしら、と迷います。彼がもう1日無事だったら僕は彼に会えていたのに。そんな無念の気持ちで先に進めません。
時間が経つ。思考が停滞していようが堂々巡りをしていようが、朝は来ます。12月の朝は6時過ぎくらいからなんとなく空が白んできて、7時にはハッと明るくなります。また一晩過ごしました。
少しだけ休憩してコーヒーを淹れ、温かい事務所で事務仕事をしながら天気予報と情報カメラの映像を時折見ていたらラインの通知が来ました。後輩の子からクリスマスのメッセージカードのようなスタンプが送られていました。僕は相変わらず軽い、調子の良い返事を送りましたが、そういえばこの子と仲良くなったのは彼が亡くなってしまった後だったと思います。
あの頃は彼の死を受け入れるのに精一杯で、よく集まっていました。僕も辛かったので東京や彼の地元へ行って仲間に入れてもらっていたのをよく覚えています。あの頃は喪失感とショックで一人になるのが怖かったし、機会があれば同じ苦しみを持つ仲間と同じ時間を過ごしたかったんです。
夜中、なんとなく彼のことを考えていたその翌朝にその頃の仲間からメッセージをもらうと、ふむ、と思うところがあったりします。僕らは今も亡くなってしまった彼を想うことで心の繋がりを得て、仲間になっているのかもしれません。これを以て「贈り物」と言うのは傲慢な気がするけど、悼む気持ちはいつだって変わりません。
いつだって僕は彼と冷たいビールを飲みたかったし、同じ時代を生きて一緒に年をとりたかったさ。
死は無だろうか。僕は違うと信じたいです。
冬の雪山で夜中に起きていると、こんなことを考えてしまいます。