よねろぐ!

新潟県上越市で活動中のサポートドラマー。音楽から超どうでも良いことまで幅広くカバー。美味しいものはすこしだけ。

ノクターン(日記148)

僕の魂が過去、何度か生まれ変わりをしていたとして、これからも生まれ変わるチャンスが用意されていたとしても、肉体を持ってこの演奏が聴ける機会はもう二度と来ない。それくらい貴重な時間でした。

フジコ・ヘミングさんの演奏会へ行ってきました。本当に良かった。自然と涙が溢れました。嗚咽を抑えるのが精一杯でした。なにか、自分の負のものが浄化された気持ちになりました。

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フジコ・ヘミングさんのコンサート、3年くらい前から行きたくて思い立っては調べて、ああ遠いからだめだとか、チケット完売だ、とか。転売サイトで3倍近い価格で売られていた時もあったし。音源を聴いて、動画を見て、著書を読んで、その度にやっぱり生で演奏聴きたい、遠くからでもいいからお会いしたいと思っていて。

昨晩ようやっと夢が叶ったわけですが、会場2時間前から会場ロビーでそわそわして。「もうこのまま帰ってしまおうか」って何度も思いました。本当にファンになるとご本人と同じ空間にいることがこわくなるんだなって。いやでもせっかくの新潟公演だし、これを自分から逃したら多分一生後悔すると思って。ずっとそわそわして。

開場して、開演までの時間もホール内をうろうろして、あでもホールの立ち位置で音ってどのくらい変わるのかなって思ったりして、演奏者さんたちが譜面さらってる音を前で聞いたり後ろで聞いたり真ん中で聞いたり。そわそわ。

開演。第1幕は東京ニューシティ管弦楽団の演奏からで、これがもう、すごい。指揮者ってすごい、コンマスってすごいなって、生で聞かないとわからないと思います。どれだけハイレベルな練習をこなしてきたんだって。僕らが普段やっているバンド音楽はなんて解りやすいんだって。クラシックのプロの演奏家、音楽家たちは何百年も前からこんなハイレベルなことを、血肉を削って精神をすり減らして、耐えて耐えて、受け継いできたのかって思いました。これ自分への戒めとしてあえて書きますけど、早く叩けたからなんだ、早く弾けたからなんだ、ロックだからどうした、ってその行為の無意味さ無力さに心折られて、なんの反論もできないまま前のめりで圧倒されながら聴き込んでる自分がいました。ライブで音のムラが、なんて言ってる場合じゃないです。このプロの演奏家たちのコンサート聞いたら、僕なんかステージに立つ資格はないと思ってしまいました。稚拙。半端。

とにかく圧倒されて、何曲目かも曖昧で受け止めきれないまま指揮者が退場して、休憩のアナウンスがあって、やっとふっと力抜けた。さあいよいよだ。

第2幕からいよいよフジコ・ヘミングさんの登場です。ステージ袖のドアが開いて、フジコさんが入場したときにはもう泣いてました。あっと会えたって。同時にその姿が、杖を使われていて、お痛ましやと思ってしまった。ここで僕が過剰に不安になってしまったのが昨日の反省点です。第1幕で圧倒されてのめり込みすぎたせいで、フジコさんが若者のようにシャンシャンとしてる姿でないだけ(当たり前)で、不安になってしまった。よくよく見たらピアノに向かってから、演奏する直前までご自身の指とか手を見てたりあっけらかんとしてる仕草はあったのだけど、僕はここで不安になってしまった。この不安は後にコンマスさんの余裕を匂わす演奏と、フジコさんのマイクとソロ曲で無事解消されます。

コンサート前に見ていたフジコさんのドキュメンタリー映画フジコ・ヘミングの時間)で、どれだけ練習しても各会場のピアノとの相性があって、ミスタッチにつながることもあると言われていました。今回はどうだったのだろう。

それからの曲ものめり込んだ状態で、圧倒されて、時間があっという間にすぎて、指揮者、管弦楽団、フジコさんのマネージャーの人が退場されてフジコさんが少しだけ喋って。そのお声が動画や映画で聴き馴染みのある声で、僕はまた泣いて。

「今日来てくれたことと、たくさんの拍手と、ありがとうございます」「一昨日くらいから体の調子がひどく悪くて」ああ、やはり、入場の時の杖、、「手と足がしびれてうまくできるかわからないですけど」ああ、、。

「ラ・カンパネラとショパンノクターンをやります」2曲。開場が歓喜に沸きました。

圧巻でした。フジコさんのピアノ曲。圧巻でした。早くて力強くて、繊細で柔らかいタッチだということが素人の僕でも十分わかりました。速さの中に温かみがあって、誰よりも優しい。

ノクターンでぼろっぼろに泣いてしまった。嗚咽を我慢するのが辛かった。マスクぐしゃぐしゃ。こんなに良い、心あらわれるノクターンがあるものかと。これか、と思いました。「フジコ・ヘミングのピアノを聴くと涙が出る」というのはこれなんだ、と。なんだか自分の心の中の負の気持ちとか、過去の辛い記憶とか、そういうものが許されたような、本当にそういう気持ちになりました。これは多分わからないと思う。でも僕はそう感じた。

どのクラシック曲を聞いても僕はフジコ・ヘミングさんのピアノの表現が好きです。深いリットと、崩すところのまとめ方と、曲の感情が。本当に好きです。

行けてよかったです。本当によかった。最初にも書いたけど、僕の魂が輪廻転生しているものだとしても、フジコ・ヘミングさんのピアノを生で聞ける機会はもう永遠に来ないと思っています。

ただ同時に、まだジャパンツアーされているので、多少遠くてももう一度、という気持ちが少し出始めてます。いけるかな。そんなこと許されるのかな。

信じてみよう。求めよされば与えられん、だ。

こんなに感動した演奏を聞いて、憧れの夢のような時間を過ごした僕にできることは毎日を一生懸命生きることなのかしら。

フジコさんの著書「フジ子・ヘミングの「魂のことば」」から好きな節。

 

死ぬ人は、その人が死ななければ贈れない最善の贈り物を後の人に残していく。それを受け取った人は不思議な力を受け、新しい生涯が始まる。

母の死は、そんなことを教えてくれたわ。

 

本当に貴重な時間でした。

どうかいつまでもお元気で。