よねろぐ!

新潟県上越市で活動中のサポートドラマー。音楽から超どうでも良いことまで幅広くカバー。美味しいものはすこしだけ。

愛するということ(日記194)

精神科医名越康文先生が面白いです。

きっかけは某チャンネルの「ゲームさんぽ」という企画で「DETROIT」や「ネバーエンディングナイトメア」といったゲームの登場人物を精神分析されていた動画でした。対象を豊富なカウンセリング経験だけでなく、深い愛情を持って分析されており、いつしか対象を自分と照らし合わせて見るようになっていました。

直近では同企画内で漫画「血の轍」の歪んだ母子関係を紐解いており、現在進行系で更新中。


www.youtube.com

名越先生個人のYouTubeチャンネルでは「リトルナイトメア(1と2)」「デスストランディング」「龍が如く7」などさらに有名ドコロのゲームも分析しています。「ゲームさんぽ」よりも動画が長く、あまりカットされていないので個人チャンネルの動画の方が僕は好きです。長いけど。

ゲームや漫画の登場人物とはいえ、名越先生のようなプロの精神科医が分析する様を見ることができるというのはとても面白いことです。

個人特有と思える癖や思考に至る原因が、その対象のどこかに隠されている。それを興味本位で紐解いて、無理矢理に日の下へ引きずり出すのではなく、あくまで助けたいという愛情を強く持って接している姿に慈しみを覚えるのです。

ゲームに登場するバケモノにも「救ってあげたいけどなぁ」と漏らしています。「この(バケモノになった)原因はどこかにあるんちゃうかな」と。

登場人物を分析している最中にそれを見ているこっちとしては「自分もそうなんじゃないか」とか「自分もそういう考え方をするなあ」などと、思いを馳せているのが面白いんです。

名越流では「体癖」という観点で人物をパターン分けしています。この体癖については名越先生のオンラインサロンで公開されており、その本質は無料では知り得ることはできません。それでもYouTubeではその片鱗を味わうことはできます。

そして人物をパターンで分ける体癖理論を構築していながらも「イチョウの葉っぱは何万枚もあるが、どれをとっても同じ形がないことこそが生命の神秘であり個性の現れ(意訳)」ということを言っていたり、「瞑想と祈りの重要性」を説いていたり、人間や精神を唯物的(唯脳的)だけに見ない、何らかの宗教心を感じます。

あとやっぱりおしゃれ眼鏡のベビーフェイスおじさんに弱いんです僕は。

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さて。

名越先生についてはもっと知りたいし書きたいのですが、今回書きたいのは「血の轍」分析動画内で「読んだ人だれもが幸せになる」と名越先生がオススメしていたエーリッヒ・フロム著「愛するということ」の書評です。

土曜日の午前と日曜日の午前にスタバに居座って一気に読んじゃった。こんなに集中して読めたのは久しぶりです。最初に書いておきますが「読んで良かった」と心から思える一冊でした。

エーリッヒ・フロムは1900年、ドイツ生まれのユダヤ社会心理学者。1933年にアメリカに帰化したそうですが、この時代のドイツにユダヤ人として生きていた壮絶さは言わずもがなの経験をしています。代表作はファシズムに至る心理的起源を明らかにした「自由からの逃走」。晩年は仏教の禅の思想にも関心を持っていたそうです。

 

直近の自分の悩みをぶちまけると、いい年なのに結婚する相手がいない(なんなら好きな相手もいない)状態で、正直ちょっと焦っているのですが、そういう相手が見つかる前にこの本に出会ってよかったなと今では思います。

冒頭、フロムは「愛すること」についての問題提起から始まります。

そのひとつに、愛するべき相手を市場原理主義的な商品として見ていないか、自分の社会的地位や容姿と等価交換できるモノとして捉えていないか、と問いかけており、短い期間で湧き上がるような奇跡的な愛情の先には失敗が待っているとも論じています。

フロムの説く「愛」とは、瞬間的に落ちる快楽や感情だけでなく、生きることと同じように「技術を伴った行為」であるといいます。技術であるならば、それを修得するのには理論と習練と関心を持たなければならない、ということ。

「現代人は心の奥底から愛を求めているくせに、愛よりも重要なことは他にたくさんあると考えているのだ。」

「人びとはこんなふうに考えている。金や名誉を得る方法だけが習得に値する。愛は心にしか利益を与えてくれず、現代的な意味での利益はもたらしてくれない。我々はこんな贅沢品にエネルギーを注ぐことはできない、と。はたしてそうだろうか。」

冒頭の問題提起。起承転結の「起」がここにあります。多くの人は愛を求めていながら愛の究極的な部分についてついて無関心だし、それを知り得ようという努力もしていないと、フロムは言います。

 

第二章からは前章で述べた「愛は技術である」という前提のもと、理論と技術を得るための習練の方法を論じていきます。が、この愛の理論に入る前に「そもそも人間とは」という土台を神話をベースにきっきり固めています。

そして「そもそも愛とは」と続き、「ここで言う愛とは共棲的結合のことではない(意訳)」と、議論が進められていく。共棲というと、互いに補うという意味ではそんなに悪い気はしないので、僕は文脈から共依存と捉えました。このあたりの議論は少し難しかったです。

フロムの議論はちゃんと形作られた考え方に名前をつけ、積み上げていくように構成されていて、雰囲気で捉えることに慣れているとしんどくなってきます。が、フロムの中で生まれた思考が形作られ、それらが積み木のように組み上げられていく様を傍観しているようで、追従しているようで、建物が作られていくのを早送りで見ているような心地よさがあります。複雑な構造物のすべてを理解しなくても組み上がっていく様を見てるのが楽しく感じるように。

 

諸々の議論の末、フロムが出した答えは

「成熟した愛は、自分の全体性と個性を保ったままでの結合である。(中略)愛によって、人は孤独感・孤立感を克服するが、依然として自分自身のままであり、自分の全体性を失わない。」

そして、

「わかりやすい言い方で表現すれば愛は何よりも与えることであり、もらうことではない、と言うことができよう。」

と論じている。そうは言っても、だれかに与えた分、自分のを失ってしまうから損だ、という反論にもフロムはきっちり答えており、

「与えることは、自分の持てる力のもっとも高度な表現である。与えるというまさにその行為を通じて、私は自分の持てる力と豊かさを実感する。(中略)与えるという行為が自分の生命力の表現だからである。」

このあたりが書かれている本書40ページ前後の部分、とても好きです。肯定的で、自立していて、前向き。自分を害さない独立自尊な思想がフロムの言葉によって力強く押し出されています。人間は高い精神性と意志を持った強い生物であると。

ここまででわかるのは、愛はよく知られている救済とか微笑ましいふんわりとしたささやかな側面だけでなく、マッチョで成熟した強くて活発な側面も多くあるということ。

積極的で発展的で、したたかな側面がとても大きい。また、そういった側面は精神的に成熟した人間によってもたらされるのだということ。我々が生きる意味は思っているより大きいというマインドになれます。名越先生が言っていた通り、この本を読めばみんな幸せになれると思います。

 

このあと、本書で大きなテーマであり極めて重要な「親子の愛」について論じられます。母の愛、父の愛、それらが欠如した場合、子供の将来の精神構造にどんな影響が現れるか、といったことが第三章に渡って論じられます。ここで僕としても気付かされる点がたくさんありました。

よく言われるように幼少期の親子関係、愛情の与えられ方は後の人格形成に極めて重要であると、改めて繰り返し述べられます。

 

そこから現在の社会構造がかかえる問題点について話題は発展していき、

「現代資本主義がどんな人間を必要としているか。(中略)飽くことなく消費したがる人間、好みが標準化されていて、ほかからの影響を受けやすく、その行動を予測しやすい人間である。」

「その結果、どういうことになるか?現代人は自分自身からも、仲間からも、自然からも疎外されている。」

そうして人間と人間がちょっとオーバーに互いに理解し合う、過剰に気を遣い合う社会になり、相手の気分を良くするように努め、礼儀正しく接するだけの関係にとどまると、死ぬまで他人のままであり愛し合うことの目的である「中心と中心の関係」になることはない、のだそうです。

「ふたりの人間が自分たちの存在の中心と中心で意思を通じあうとき、はじめて愛が生まれる。」

 

端的に言えば現代資本主義では、我々は人を心から愛すること、中心と中心で接することができず、ロボット化することで市場の商品のひとつとして経済優先の生活をしていると分析しています。それをただ悪いというのではなく、

「私が証明しようとしたのは、愛こそが、いかに生きるべきかという問いにたいする唯一の健全で満足のいく答えだということである。もしそうだとしたら、愛の発達を阻害するような社会は、人間の本性の基本的欲求と矛盾しているから、やがては滅びてしまう。」

と警鐘を鳴らしています。

 

余談ですが高い知見から様々な持論を展開する愛すべきオタキング岡田斗司夫さんによると「今や社会において我々は市民ではなく消費者(意訳)」なのだそうです。ここで言う市民のことを僕は「知見と良識と権利を有し、社会正義を尊重する集団」だと捉えています。

この市民たちは自身の権利を自身のためだけや、一時の個人感情に支配された状態で行使せず、社会正義的に則った選択をしますが、対して消費者はあくまで自身の要求を満たすものだけを常に選択していきます。

別に「社会正義を持たない消費者が悪い」と言いたいわけではなくて、僕らは気づかぬうちに社会に対して無責任な選択をする消費者に成り下がってしまっていて、なにか大きくて大切なものを失うことになるのではないか、という気がしてきます。余談終わり。

 

ここに至るまでとても的確で深い心理探求と議論が本書の大半を占めており、これは自分と照らし合わせて読み進めていくと、少し手を止めて考えさせらる場面というのが多く出てくるはずです。ここが感動した、というのがありすぎます。

翻訳者の意図もあるのでしょうが、フロムの口調というのが押し付けがましくなく、淡々と考察、分析されているのがとても読みやすかった印象です。

また時代に合わせて単語だとか表現を少し変えている部分もあるようで、これも読みやすさのひとつなのだと思います。翻訳本って極端に読みづらいの結構あるじゃない。

名越先生がオススメするだけあって、とても勉強になったし自分の悩みに対する方向性が見えてきました。

今の時代だからこそ色んな人に読んでもらいたい、とても良い一冊です。