よねろぐ!

新潟県上越市で活動中のサポートドラマー。音楽から超どうでも良いことまで幅広くカバー。美味しいものはすこしだけ。

息子と狩猟に(日記203)

「生きるとは殺して食うことー 

命には生と死が同居するという逃れようのない現実がある。眼の前で倒れた獲物は、殺生への戸惑いも、命への感謝も受け付けず、「殺した側にもいつか死ぬ番がくるのだ」という覚悟をただ静かに突きつけてくる。」


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サバイバル登山で有名な登山家であり作家の服部文祥さんが2017年に出版した小説「息子と狩猟に」を読みました。

本書はタイトルとなっている中篇「息子と狩猟に」ともう一篇、こちらも中篇の「K2」という2つのストーリーが収録されています。

(注釈・K2とはエベレストに次ぐ世界第2位の標高を持つ山の名前です。あまり聞き馴染みはありませんがエベレストの死亡率が1%なのに対し、K2はまさかの23%。挑戦した登山者の4人に1人は亡くなっている絶望級難易度の山です。この山の登頂に著者、服部文祥さんは1996年に成功しており、この人も化け物級にすごい登山家だと言えます。人間じゃない。)

あっという間の200ページ、あっという間の3時間。ノンストップで読み切れるくらいめちゃめちゃ面白い一冊です。これはすごいものを読んだという確かな実感。生きることについて考えさせられます。

読んでいる最中に緊張で毛が逆立ったし、ある場面では恐ろしさで手が止まり、顔が歪んでしまうくらいの衝撃がありました。本を読んでいて表情が曇るどころではなく、顔が歪むことって普通ないですよね。

「息子と狩猟に」と「K2」、どちらも緊急事態や極限状態のシーンがあり、緊張の糸がピンと張られっぱなしのドキドキの作品です。そして、この状況ではどうするのが正解なの?と「生きることと死ぬこと」から一歩も二保も離れてしまった現代社会に生きる僕らが著者から問われているような気持ちになりました。

気づけば人間の尊厳について考えていた自分がいた。

ここでは「息子と狩猟に」をメインに書きます。

というのも「K2」の方は衝撃的すぎて感想を書けそうにないからです。これは読んだ人にしかわからない感傷かもしれません。なので最後の方に短く書くに留めます。

普通の人が経験しえない、服部文祥という登山家の経験から描かれる衝撃のストーリーでした。ただ僕は、「K2」の方が好きかもしれません。

「息子と狩猟に」

週末ハンターである倉内。小学6年生になった長男を連れては初めての鹿狩りに奥秩父の山へ入ります。獲物を追っている途中、劇場型詐欺グループのリーダー加藤と遭遇してしまいます。加藤は劣悪な家庭環境から子供の頃より荒んでいましたが、小学生の時にオジイと呼ぶ猟師と共に山へ入り、ウサギやイノシシを狩っていた経験がありました。

実は、加藤はこの日、詐欺の途中で自ら手にかけた死体を埋めるために奥秩父の山に入っていたのでした。

加藤との遭遇ですぐ異変に気づいた倉内。なるべく穏やかに接し、息子と脱出しようとするも加藤の凶悪な本性が出てしまい、危機的状況に陥ります。

そして倉内の手には猟銃が...。

という物語。

倉内と加藤、全く関わりのなかったはずの2人が山中でクロスし、実はもう一層深いところで繋がっているというタランティーノ映画のような面白い構成とスピード感のある展開です。本当に素晴らしい。

倉内が加藤と出会うまでの一昼夜は息子と鹿狩りをしている描写が主で、狩猟の準備から山歩きの場面、テントを建て見上げる星空と冷たい空気、アウトドアな親子の会話と、

狩猟に関しては引き金を引く一瞬の精神状態も描かれており、さすが狩猟免許を持ち山を駆け巡っている著者の貴重な体験がたっぷりと活きていました。

この部分はドキュメンタリーそのものだと思います。

 

「準備を整え、じっと状況を積み重ね、備え、そして訪れた境遇の瞬間に、すべての感情を封鎖する。精神と肉体は装置となり、絞り込まれるように連動して、破壊の一点に向かい集約する。殺生とは相手を殺すことのようで、実は、自分という人間をひととき殺すことだ。」

「森の中の空気がまだ動いていた。そっと次弾を薬室に送り込んだ。栂(ツガ)の暗い森に影が動いた。さっきと同じラインだ。だとすれば廃道を横切る。立膝になり、森を見上げた。」

 

著者のYouTubeチャンネルの動画で狩猟している際「やっと1頭。気配だけなら100(頭)くらいいたかもな」と漏らしており、獲物との遭遇は気配と目視とで分かれて認識しているようです。

目だけでなく、5感すべてでも足りず、第6感をも使って獲物の気配を読んでいるのがわかります。

読んでいる最中は頭の中に映像や感覚がありありと浮かんできて、まるで自身の経験かのように取り込まれてきました。著者の文章表現は素晴らしくシャープでシンプル。

その膨大な経験をサラリと書いてしまっているのが本当にクールです。いやらしい執着心みたいなものを感じません。

 

自然の息吹と流動性、上下する自身の血圧や分泌される快楽物質から指先の冷たさ、沢に濡れた片足、人間の体温よりも高いという鹿の腹内の熱さも感じ取れるような描写と緊迫感。

引き金に指をかける直前はこっちの呼吸も静かに、無駄な音を立てないようにしていました。没入感とはこういうことを言うのでしょう。

詐欺と狩猟。別モノだと思っていたこれらも実は原理が同じなんじゃないかと思わせられるシーンもありました。

「詐欺がはじめて成功したとき。オジイといっしょにやっていた罠猟や毛バリ釣りと似ていると加藤は思った。抜けたヤツを出し抜いて食い物にし、うまく逃げたヤツは生き続ける。そうやってぐるぐるまわる。」

 

詐欺と狩猟のプロセスは似ている部分があるものの、加藤の詐欺がうまくいく話は嬉しくないですが、倉内が獲物を仕留めた時は嬉しくなります。この対比のテクニックもあるのでしょう。

そして倉内の息子になった気持ち。あるいは、狩猟と山歩きド素人の自分が3人目として登場し、倉内の銃口とその先の獲物を息をこらして見ているかのような気持ちでした。

本書は紹介文に犯罪小説と紹介されていましたが、そこは疑問に思います。

危機的状況に陥ったとき、自身の判断を肯定できるか。自分の生存を正当化させる理由をどこに持たせるか、という極まった内容なんじゃないかと思っています。

自己の生存を肯定することと、いのちをいただくことは関連していて、人間は自然と繋がっているのだという自覚。

 

ここからは「息子と狩猟に」と特に衝撃を受けた「K2」を両方読んだあとの感想になります。

生きるを究極に突き詰めるなら、食べるを徹底的に突き詰めるなら、自分の生命を存続させることを肯定し続ける覚悟を持たなければならない。何に変えても。

普通に生活していればこんなことは考えなくてもいいのかもしれないけど、今日もきっちりごはんを食べている事実は否定できない。

いのちは食べることと繋がっていて、食べることで僕らもいのちと繋がっているんだ、という自覚。そして、いのちは「ぐるぐるまわる」のだということ。

 

服部文祥さんがこの物語で書いていることはこういうことなのかなと思います。

「K2」では松濤明さんの遺書を引用したシーンもあり、心を打つものがあります。これほど鬼気迫る生死感を突きつけられたことはありませんでした。

登山家に対して「なにを、わざわざ」という意見があるのは知っていますが、

僕はこの方たちを尊敬しています。