よねろぐ!

新潟県上越市で活動中のサポートドラマー。音楽から超どうでも良いことまで幅広くカバー。美味しいものはすこしだけ。

神々の山嶺(日記176)

「山」に対する想いが少しだけ強いのは子供の頃から火打、妙高新潟焼山、黒姫、飯綱の山々、妙高戸隠連山を見て育ったせいだと思います。

僕が幼少の頃過ごし、今も生活の拠点としている旧東頸城郡牧村から高田平野へ抜ける国道405号を下るとき、これらの山々がよく見えます。特に妙高山は融雪の時期、5月の連休くらいになると跳ね馬と呼ばれる残雪の模様が山の中腹に見え、この跳ね馬を目印に田植えシーズンの始まりとなります。今年は馬がはっきり見えたね、とか、今年は痩せた馬だね、とか。地元の人の春の話題になるくらい上越市民にとって思い入れのある山です。

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 僕が「神々の山嶺」を知ったのはネット上で出回った画像からでした。主人公であるカメラマン、深町がエベレスト無酸素単独登頂を目指す登山家、羽生をキャンプ内で待つときの食事シーンを描いた数枚の画像は未だにネット上で有名なのではないでしょうか。

たっぷりの紅茶に溶かしたはちみつ、リンゴ、チーズひとかじり、ビスケット。谷口ジローの描く食事シーンは孤独のグルメでもおなじみ、こちらの胃袋と唾液腺も刺激されます。エベレスト登山中という極限の状況であり、口にできるものが携行食という粗末であってもそれは例外でなく、惹かれます。

ちなみに有名なこのシーンは滑落してしまった深町を羽生が救出しデスゾーンを脱した後という本当に極限の状態での食事シーンで、この後深町は命からがら下山。羽生はこの後、たった独りでまたエベレストの頂へ挑んでいきました。

僕は山へ「憧れ」を持っています。また、山に対して何かを期待して見ているのではないかとも思ったりします。たまにする登山なら達成感を得ることを期待し、麓から見るときは季節の移り変わりを期待している。外仕事中に腰を伸ばした時は山を見て風を感じることもあります。

山は身近な存在なのです。山を見、身近に感じながら、この自然や森羅万象の中でポツリ自分という人間が在ることを確認したい気持ちがあるんだと思います。

 

数年前、長野の安曇野へ行ったときの光景が忘れられません。

あの街ではたくさんの登山者を見かけ、麓のコンビニではお弁当やお惣菜より、おにぎりと携行用のパン類がものすごい量仕入れられた形跡がありました。そして、そのほとんどが売り切れ、北アルプスへの入り口の街という確たる証拠を感じたのでした。

その安曇野の景色。整備された圃場がほんの1キロ程度見え、その先は折り重なるような山、山、山。その遥か頂上にさらなる山、雲の切れ目に切り立った山頂。我が上越市も山が近い街ですが、北アルプスの威厳には到底かなわないと思いました。

その時見えた山が槍ヶ岳だったのか穂高だったのか、わからなくなってしまいましたが、薄い霧に包まれ夕日を背にしたあの山々は大自然の集合体であり、我々は山岳信仰の対象であると自負しているかのように峨々とそびえていました。その時の心境も相まって、畏怖を感じたものです。

山にはなにかあると感じています。人間は自分を知るために山に行くのだろうと思います。悩みがあり、苦しみがあるとき、山に行くのだと。山の力を借りなければ乗り越えられない場面が人生には何度かあるのだと。

悩みの渦中にいるとき、周囲は暗闇で自分は孤独で、なんの道標もなくただ苦しい時間が過ぎていく。自分がこんなにも無知で無意味な存在だったのかと絶望する時間です。

そんな時に山に登って問いかけても、人生の答えなんてそう簡単にわからない。けど、自分という存在が在る、居るという事実を再確認することはできます。自分の立っている場所が頑丈な岩盤の上であると確認したら、次の一歩は安心して踏み出すことができます。

 

神々の山嶺は地球に挑む男が描かれています。人間が作った社会やルールよりも、自分にあふれる自己満足を山にぶつけ、挑むことの方が大事な男が登場します。彼の挑戦に名誉名声は関係なく、死ぬことさえも関係ないのかもしれません。

物語でも触れられますが、約100年前の1924年にエベレストに挑戦したイギリス人登山家ジョージ・マロリーが人類初の登頂を成し遂げたのかどうか、という点は最大の謎として未だに結論が出ていません。マロリーは「そこに山(エベレスト)があるからさ」の名言を遺した人物です。

彼がその頂に到達していたとしたら、写っているはずのカメラとフィルムが未だに見つかっていないのだそうです。この歴史的事実を踏まえ、より高難易度の条件で羽生が挑むエベレスト。そしてそれを写真に収める深町の追従登頂を描いた「神々の山嶺」は自然と生命に対する畏怖と尊敬の想いがなければ描くことできません。

山屋と呼ばれるハードな登山家たちの生死感や価値観。自分という存在の捉え方。生き方、死に方。デスゾーンで遭遇する幻覚や幻聴のシーンをみるに、あの世に最も近い場所なのではないかと思います。極限での人間の行動や、局地で死ぬとはどういうことか、とても考えさせられました。

「何故山に登るのか 何故生きるのか そんな問いも答えもゴミのように消えて 蒼天に身体と意識が突き抜ける」

史実と物語がクロスする面白さも十分にあり、山に興味がない人にもおすすめできる作品です。凄みがあります。

マロリーの遺体は、未だにエベレストに遺り白い肌を覗かせているのです。

エベレストはそういう場所なのだと、知ることができる作品です。