よねろぐ!

新潟県上越市で活動中のサポートドラマー。音楽から超どうでも良いことまで幅広くカバー。美味しいものはすこしだけ。

世阿弥最後の花(日記175)

藤沢周の著書「世阿弥最後の花」を読んでいます。やっと7割くらい。

前の日記にも、インスタにも書きましたが、本当に花鳥風月が過ぎる作品。佐渡の自然と景色が、さも自分の故郷かのように思えてくるくらい表現が豊かです。著者の藤沢周新潟県出身ということもあるのだろうけど、この土地の風土風俗が素晴らしく表現されています。



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 そもそもこの本を読んだのはオードリー若林がインスタであげていたのがきっかけ。世阿弥その人にピンときたわけではなくて、藤沢周と聞いてなんとなく「山本五十六」を書いた半藤一利や「上杉鷹山」「北の王国」の童門冬二といった、出身は違うけど新潟県に縁のある作家さんが思い浮かんで、僕の脳内Googleの関連ワードに急浮上。藤沢周を本物のGoogleで検索したら新潟県のご出身、世阿弥を調べたら佐渡に流刑された事実を知って購入に至ったのでした。

新潟県。僕はやっぱり新潟県が好きだなと思います。自分の故郷ということもあるのでしょうが、山も海もある。夏は強烈に暑くて蒸すし、冬は憎いほど雪が降って、積もる。はっきりしている四季は自分が生まれるよりずーっと昔からあって、当時生きていた人も同じような、僕が感じる以上の季節感を感じていたのだと思います。

物語は世阿弥が72歳という老年で佐渡に流刑されたところから始まります。もうね、佐渡への道中、船の上から見る海と波の表現からして花鳥風月が過ぎる。白波の光の表現とそれに寄り添うように過去を振り返る世阿弥の心情。若くして亡くなってしまった息子に対する悲しみが、景色と風と光に乗ってこちらにも届いてくる。そんな感覚に陥ります。

作中、何度か幽玄という表現が出てきます。能、芸と幽玄について今まで読んだ別の本やら漫画やらで何度か出てきていたのですが、その実態はいまいちよくわからなかった。しかしこの作品で何か掴めた気がします。都からの手紙で「都では鬼の舞が流行っている」と聞き、動きの多い鬼の舞では芸が誤魔化される、本当の芸とは静かな時間の流れにあるのだと、風になびく草のようでなければならないと世阿弥は言います。無になること。上手くなろうとする意志さえ、芸の道には邪魔になること。

 

藤沢周は初めて読んだけど、この作品はすごい。能の源流、申楽の師である世阿弥の目で見る佐渡はこんなに美しくて、おどろおどろしくて、悲しいのかと。人と人の関わりや、権力に破れ鄙に落とされた人物の恨みに足を取られる登場人物の表現は、人間の深い業が渦巻いているようでもある。流刑地という特色から、特殊な磁場のようなものが出来、ひとつの霊場になっているような場所。それらを描きながら佐渡の美しい自然の表現。藤沢周はすごいのだ。

結局、筆者がどれだけ身命を賭して書き上げた文章と表現も、読者にそれを受け取れるだけの経験や度量や感性がなければ、本当の意味で伝わらないのではないかと。疾風脛草という言葉がある通り、強い風が吹いて初めて、それに耐えうる草木の存在に気付くことができる。茶道において亭主の計らいをそっくりそのまま引き出せるかどうかは、正客の存在が重要になってくる。バットマンはジョーカーという極悪人が存在するから、その正義感はいかほどか推し量ることができる。

物書きのプロであれば自分が筆者だろうが読者だろうが、それで勝った負けたと嫉妬に狂う人もいるのだろうけど、良い作品を目の前にして、僕のような一般読者はただ圧倒されるに尽きる。中村仲蔵の工夫のように、衝撃的な作品を目の辺りにした時、一般大衆は理解も反応も何もできず、ただ衝撃に驚く子供だけが泣き出す。評価は後からついてくるというのは、正にその通りだと思う。すごい作品に出会った時、最初はただ感動の衝撃があるだけなのだ。この物語にはそれがある。

この物語にはいろいろな人生のヒントが記されていると思います。たくさんの和歌が登場し、その時々の世阿弥や登場人物の心情を表現するのに使われています。子供に対して、芸を磨く師として接し続けた世阿弥。序盤に出てくる「家に生まれたことのみを持って家族としてはならない、家の仕事を継ぐことを知る必要がある」という世阿弥の言葉は僕の心にザクッと刺さるものでした。芸事に対しての心境も学べたような気がします。

 

さて。Kindleを見たらあと残りちょうど30%。時間にして2時間ちょっとくらいで読み終りです。史実の世阿弥はその最後がどうなったか謎であるそうなので、この物語でどのように描かれるのか楽しみです。