失敗学、という言葉がありまして。
「失敗学とは起こってしまった失敗に対し責任追及のみに終始せず、直接原因と根幹原因を究明する学問のことである」(Wikipedia)
という非常に前向きな学問なのです。
失敗。失敗。失敗。毎日なにかしら失敗します。僕は。
仕事で「あー、こうしたほうが良かったのにな」と思うことばかりです。自分は脳に異常があるんじゃないかと思うくらいの考え違いをすることもたくさんあります。
(実際、本当に脳に異常があるのかもしれないけど)
そのとき、失敗の原因から目を背けず、原因は何だったのか追求・解明することが大切という学問がこれ。なんだけども、
そんなことは誰だってわかっているのです。アタリマエのことです。
じゃあなんでこの誰でもわかっていることができないのか、を考えてみると、そこには人間の心情や心境といった「心の側」に原因があることが多いと気づきました。
隠蔽の殆どは自己保身ですよね。自分をよく見せたい気持ちだったり、名誉欲なんかも絡んでくるはずです。
そういった気持ちが、失敗学を十分に機能させる妨げになっています。
科学や学問を科学や学問たらしめるモノは、それを使う人間の良識に関わってくるわけです。
世の中どんなに便利になっても、最後は人間の良識に関わる、という仕組みは多分連綿に続いてきた課題なんだと思います。
ではその良識はどうやって手に入れるか、という話ですが、ここからは目の見えない世界の話になります。その人の価値観の問題です。
死後の世界があるか、ないか。この価値観の岐路が人間の良識を分けるモノだと言われています。
極端にいえば「死んだらご破産。何もかもおわり」と考えるか、「死んでも終わらない。新しい世界につながっている」と思うか。だと思います。
この価値観の違いで良識は全く変わるはずです。
僕は人は死んでも魂は生きると思っているので、後者の価値観で、拙いながらも自分なりの良識を育んでいます。今生きている「自分」がゼロになるなんて信じられない、それだけです。
同時に期待でもあるんです。死後の世界があれば、生きている間に伝えられなかったことが、何十年か後にまた会って伝えられるんじゃないかっていう。そういう期待。願い。
そろそろ彼が旅立って1年。僕は僕の人生が終わった後に彼と笑顔で会うために自分の中で決めたことがあって、それを守って過ごしています。
ときに破ってしまうという失敗を犯すこともあると思います。でも僕はまた会えるって期待しながら、失敗しながら生きていこうと思います。