よねろぐ!

新潟県上越市で活動中のサポートドラマー。音楽から超どうでも良いことまで幅広くカバー。美味しいものはすこしだけ。

「イノセントマン」ビリー・ジョエル100時間インタヴューズ(日記181)

今までで一番聴いたアーティストは誰、と聞かれたら僕は間違いなく「ビリー・ジョエル」と答える。ビリー・ジョエルを知らない人には「世界で初めてCD(コンパクト・ディスク)で楽曲販売をしたアーティスト」と紹介すると興味を持ってくれるのではないだろうか。「ニューヨーク52番街」というタイトルのこのアルバムは名曲揃いで、「ビッグショット」「ネオスティ」「マイライフ」はビリー・ジョエルの代表曲としてアルバム発売から20年以上経った2000年代のライブコンサートでも演奏されている。僕は特に「ザンジバル」のトランペットソロがたまらなく好きだ。3連符のライドシンバルに合わせ忙しなく動くベースラインに乗るハイトーンのトランペットソロはジャズそのもので、高音域の管楽器はここまで難易度が高いのかと何度聴いても感動を覚える。トランペットソロは2回あり、後半のソロは「やりきった!」高揚感がある。

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このブログでも何度か話題にしたが、僕が人生で見た初めてかつ最大のライブコンサートが1998年、東京ドームでのビリー・ジョエルエルトン・ジョンのジョイントコンサートだった。あの日の衝撃は未だに覚えていて、あの日あの場所での最年少観客は確実に僕だったと確信している。コンサートに合わせて家族で東京旅行へ行ったのだが、旅行計画段階で親戚家族と浅草観光へ行くか、ビリー・ジョエルのコンサートに行くか選べと言われた僕は即答でコンサートと答えた。当時9歳の僕は浅草より知ってるアーティストのコンサートで東京ドームへ行く方が魅力があったのだと思う。初めての東京ドームはドーム内が与圧されていると知った入り口回転ドアから楽しかった。荷物チェックがずさんだったのはテロなんて言葉もなかった当時ならではだと今となっては思う。ドーム内売店の冷凍たこ焼きはなぜかソースがかかっておらず、これが東京かと謎の納得をした。

開演し、生で聞く「ストレンジャー」「ピアノマン」はやはり名曲だったし、「リバーオブドリームス」を聞けたのも嬉しかった。東京ドームの外野席から双眼鏡を覗いて見たビリー・ジョエルはバックバンドも含め最高にクールだった。パーカッションの黒人のお姉さんはコーラスもやっていて物凄くかっこよかった。グランドピアノの上に置かれた小さなカップが印象的だった。アンコールがとても長く、終電ギリギリの時間まで熱狂できた。ちなみに当時はエルトン・ジョンについて特別な感情がなかったのだが、仕方のないことだと思いつつも少し後悔している。

ニューヨーク出身のシンガーソングライターは今年で72歳だそうだ。2008年、MLBニューヨーク・メッツの旧本拠地シェイ・スタジアム閉館に伴う最後の公演はビリー・ジョエルのステージにポールマッカートニーやトニー・ベネットジョン・メイヤーなど豪華アーティストがゲスト出演したものすごいライブで、一部はYouTubeでも公開されているのでぜひ見て頂きたい。この公演はビリー・ジョエルだけでなくバックバンドのステージングや演奏、曲間やソロ前の目配せ、呼吸の合わせ方などもくまなく捉えられており、バンドで楽器を演奏する喜びとはここまで多幸感があるのかと胸が熱くなるとても素晴らしい公演だ。人は成功者を見るに「アメリカンドリームを手にした」などと単純な評価をしがちだが、実力を伴った成功にはやはり感動があるし、実力者がチャンスを掴み社会により良いものを提供していくことがアメリカンドリームの本質なのだ。ビリー・ジョエルはプロのアーティストそのもので、マッチョなアメリカ社会で現在の名声を勝ち取ってきた事実は誰にも曲げることは出来ない。

そんなビリー・ジョエルのインタビュー本「イノセントマン」はローリング・ストーンズ誌の記者が2019年に出版し、日本語の翻訳本も同年初版された。注文して家に届いたとき最も驚いたのはその分厚さで、実に700ページ。これは苦労するなと思い数週間読めなかったのだが、思い切ってページをめくると面白くて面白くて一気に150ページほど読めてしまった。冒頭はマディソン・スクエア・ガーデンでの公演前のサウンドチェックの様子から始まる。何度もこのステージに立っているビリーは「何か音を吸収するものがある」と気付き、事実、ホール内のソファーが新調されていた、というエピソードが記されている。また、本来サウンドチェック嫌いのビリーもノッてくるとバックバンドを巻き込み過去のナンバーをフル尺で、苦情が出るまで演奏したこともあったという。こういった公演の裏側が見られるのがファンとしてとても嬉しい。

序盤、ビリー・ジョエル誕生前の話題として「ジョエル一族」について、ヨーロッパの歴史と被せながら記されている。ジョエル一族はユダヤ人の家系であり、ナチス政権時のドイツとヨーロッパ社会からどのような扱いを受けていたか、一族はどのようにしてヨーロッパを脱出しアメリカ社会に溶け込むことができたかなど細かなエピソードと共に紹介されている。まさかアーティスト本でヨーロッパとユダヤ人の歴史の根深い部分が肌感覚のエピソードとして記されているとは思わなかったが、陸続きで多数の民族が暮らすヨーロッパ人の歴史はそもそもそういうものなのだろうという気がしている。

ビリー・ジョエルの両親のエピソードがたっぷり記された後、ビリー本人が誕生したあとの家族について、父との別れや姉との関係などもたっぷりと記されている。少年時代に両親が離婚し、母親に育てられたことにも触れられていた。離婚した家の子供、という事実で周囲はナイーブに考えがちだがこの点については当事者(子供)はさして重大なこととは捉えていない。実は僕の両親も僕が15歳の時に離婚しており、それ以降父とは離れて暮らしているのだが子供としての感想はビリーの回想を引用すれば「たしかに自由といえば自由です。好きなようにできるし、どういう方向にも持っていけますしね。でも見方を変えれば、芯がなくて根無し草みたいな感じでもあるんです」という認識で、僕もそう思う。母子家庭に育った男の子としては父がすぐ近くにいる生活も遠くにいる生活も、人格形成にはさして大きな影響はなかったのではないかと。ただ大人になって思うことは、社会での遊び方とか力の抜き方とか、小さい悪事を上手くやってニシシと笑うような、そんな方法を習いたかったなと振り返る。ビリーのいう根無し草みたいな感じ、とは少しニュアンスが違う気がするが、母子家庭の男の子の何か物足りない感じはそこにあるような気がする。

事実は物語より奇なりとは良く言ったもので、ビリーの少年時代のエピソードは相当面白い。なんと言ってもビリー・ジョエル本人が10代の頃交際していた数々の女性について、そのエピソードが実名と共に語られているのは驚いた。○○(実名)と別れてからイケてる女性より垢抜けてない、おとなし目な○○(実名)がタイプになった、とか、おとなし目でも美人な○○(実名)のことが気になっていた、など、よくもまあ覚えているものだなと思ったし、途中からはそのうちの一人がインタビューを受けたのだろう本書に登場し、当時のビリーについて語っていた。正直僕はビリーのことを「少し内気なピアノマン」だと勝手に想像していたが、その認識は誤っていたことを痛感した。ちょっとした場所でピアノを弾けば女の子から声をかけられるから続けていた、など、少年時代は恋に音楽に爛漫な面もあったのだと知った。

あまり良く知らなかった点としてボクシング時代のビリーについて詳しく書かれていた。強かったようだ。少年時代にいじめられていたビリーは自分を守るためにボクシングを始める。その甲斐あっていじめっこグループの一番身体が大きい子を倒したエピソードが語られていた。ビリーはメンタル的にも弱虫ではなかったようで、さっきの父との関係について「父がいなければ自分が家族を引っ張っていく」と思っていたようだし、挑戦し前に進み出るエピソードが結構出てくる。ボクシングについて今では殴られる痛みを知っているだけに、プロの試合も見なくなったと記されていた。ビリーの特徴的な鼻はボクシングの試合で曲ったのを、ジム仲間が適当に治療した結果なのだそうだがもともと堀が深いので日本人の感覚としてはあまり気にならない。

物語は進む。ビリーが売れる前に組んでいたバンド、ハッスルズとアッティラについての話で驚かされたのが「トゥモロー・イズ・トゥデイ」の誕生秘話だ。ビリーが色恋沙汰でやらかし、盟友の結婚生活と信頼を失った21歳の頃、貯金も車も免許も家もない根無し草状態のビリーが作った自殺の曲なのだそうだ。この曲は僕がビリーの昔の曲を漁っている時、聞いた瞬間に好きになった。ピアノ弾き語りで物哀しいメロディーだけど、力強い間奏があったり萎縮するニュアンスがあったり、最後のサビはそれでも前向きに立ち上がったような表現で終わっている。

その後、本当に自殺未遂をして精神病院に入院したビリーは悟る。つまるところ自分は罪悪感と絶望感でいっぱいになり自己憐憫に陥っていたが、他の入院者の状況と比べれば「僕の場合は自分で自分を病気にしていたんです。だから自力で解決できるんだと気付きました」と立ち直り、ロックスターの仮面を脱ぎ捨てる発想を身につける。この事件の後ビリーがプロデューサーに送った3曲のなかに「シーズ・ガット・ア・ウェイ」がある。名曲である。そしてビリーはミュージシャンの仕事はやりつくしたと、ロックスターの仮面を脱ぎ捨てることを決めた。

 

さて困ったことになった。本書はまだ100ページ程度、まだ第1部が終わったばかりなのにまぁまぁの長文が書けてしまった。残り600ページ。いくつかに分けてシリーズ化したいところだが、すべて網羅することは可能なのだろうか。しかしこの自分が好きな曲が産まれる瞬間のエピソードを知れるのは本当に嬉しい。挫折や好調期に作られる曲は作曲者のその時の魂がリアルタイムにのっているのだとよくわかった。僕は曲は書けないが、サポートとして参加してるバンドで新曲をやるときはそのへんの意識をもっと高く持つべきだと反省した。その時その曲が書けるのはなにか特別な意味があるのだ。

とりあえず今回は「その1」ということで、一旦終わろうと思う。また次の機会に。

夏、ハイランドフォールズにて。